ながえ孝子の歴史 History

永江孝子-家族と

昭和35年 松山市大街道の毛糸店の三女として生まれる。 ≫幼少期の写真はこちら
昭和42年 松山市立東雲小学校入学
友達とドッジボールやゴム飛びするのが大好きですくすく育ち、6年生の時にはすでに身長が160cm!健康優良児にも選ばれる。
好きな教科、給食!!(←教科じゃない!)
嫌いな事、お膳の上を拭くこと。(長女が料理を手伝い、次女は配膳、で一番下っ端の三女はいつもお膳の上を拭かされてたので・・・トラウマが)
昭和48年 松山市立御幸中学校入学
ブラスバンド部に所属、クラリネットを吹いてました。
音に包まれる幸福感を知りました。
1年生の時、脊髄側湾症が発見され、中学3年間は上半身ギプスの生活。
その時恩師が掛けて下さった「災い転じて福と成す」の言葉は今も私の支えです。
昭和51年 愛媛県立松山東高等学校入学
茶道部に所属。『坂之上の雲』の秋山好古も学んだ由緒ある『明教館』で稽古出来たことは誇りです。
運動会に燃え、文化祭に燃え、学業に燃え尽きた3年間。
この時の友人は一生の財産です。
昭和54年 国立神戸大学法学部入学 ≫大学時代の写真はこちら
研究ゼミは国際関係論。恩師の語る「真の民主主義とは」の話に胸震わせる青春の日々。・・・と、ここで道を誤る・・・落語研究会に入部。
「可愛家ひとえ」の芸名をもらい落語の世界の庶民の涙と笑いの息吹に魅了され、落語三昧の4年間を送る。
昭和58年 南海放送にアナウンサーとして入社
実はアナウンサー志望ではなかったのですが、募集がアナウンサーしかなかったので。本人的には翌年ディレクターに異動のつもりが25年続けることに。
昭和61年 弘喜さん(夫)と初めて会ってから半年、赤穂浪士討ち入りの日に電撃結婚!!<オマケのノロケ> 「彼には希望の匂いがしたの♪」 ≫結婚式の写真です
昭和62年 長女の佑麻(ゆま)誕生 ≫子育て中の写真はこちら
その10月10日の青空は忘れられません。一番幸せな日でした。
昭和63年 長男の彬太郎(あきたろう)誕生
その12月29日の星空は忘れられません。一番幸せな日が二つに増えました。
平成3年 ふるさとのいいとこ探しの旅『もぎたてテレビ』スタート
3歳と2歳の子どもをダンナに託して出張の多い生活が始まりました。
なので、家の子どもが小さい頃描いた家族の絵は、父親が一番大きい。
これは私の誇りでもあります。これが本当の家族の姿だと思いますから。
「もぎたてテレビ」時代の写真はこちら

18年間にわたり愛媛県内をくまなく取材、ふるさとのいいところを紹介してまいりました。その傍らで、徐々に寂れていく地方の現状も目の当たりにしました。
「番組を通じて、ふるさとを振興していこう」ともぎたてスタッフと共に全力 で番組制作に取り組みました。 おかげさまで、「もぎたてテレビ」は地方制作の番組としては異例の人気番組 に成長し、その取材姿勢は高く評価され、国内の全放送の中で優秀な番組を表彰する「ギャラクシー賞」を平成18年に受賞しました。
取材させていただ いた方々、視聴者の皆様、スポンサーやスタッフの皆様、いろいろな方の支えのおかげです。長い間、本当にありがとうございました。
<オマケのトリビア>
グルメ特集でラーメンを取り上げたときは、食べ残すのが嫌で1日5~6杯のラーメンを完食しました!
平成20年 これまでの人生で一番大きな決断をしました。
「変えたいものがあるなら、その真っ只中に飛び込んで戦おう!」と覚悟を決めました。9月19日南海放送を退職。
次期衆議院選挙に愛媛1区から民主党公認で出馬予定。
平成21年 第45回衆議院選挙に民主党公認で愛媛1区から立候補。127,562票を獲得し、比例四国ブロックで復活当選を果たす。
9月16日に初登院。国会議員としての責任の重さをかみしめ、決意を新たに…

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